臭いの描き方

肌色ってすごく奥が深い色だなと最近すごく思う。

 

実際に自分の肌を、特に自然光の下で見てみるとわかるのだが、肌色という色で塗りつぶされた肌は存在しない。本当にさまざまな色、紫、青、緑、黄色、オレンジ、赤、ほとんど全ての色を使わなければ、生きた人間の肌の色にはならない。

 

私はアジア人しか直接観察しながら描いたことがなく、その中でも特に日本人に偏っている。それでも、毎回どうすればこの人の肌の色になるんだ? と悩みながら描いている。

 

本当に当たり前のことではあるが、肌のトーンがそもそも全員違うし、使う色がある程度共通していたとしても、割合も当然違う。何をどう混ぜてもなかなか色が出ず、悩んだ末に今まで一度も人間の肌に使ったことがなかった色を混色してみて、ようやくその人の肌色にたどり着くようなこともある。

 

同じ人物でも、腕と手の甲と手のひら、全て色が違うし、面の向きなども含めると本当に途方もない。肌の色に関しては、本当に無限の広さと深さを感じる。



肌色にかかわらず、色というもの自体の奥深さは果てしない。



例えば赤色のりんごを描きたいという時に、見えたままの赤をパレットの中に見つけた時、それを塗る。

するとりんごの色にならない。まあこれはアナログで絵を描く時、特に透明水彩での着彩にはよくあることで、同じ色を塗り重ねるときちんと狙った色になるということもある。

 

しかし、再び赤色を塗っても、どうしてもりんごの赤にならない。

 

途方に暮れてしまう。自然物の色は総じて難しく、一度壁にぶち当たると迷宮入りに思える。

受験に取り掛かり始めて一年経たないような頃は経験が少ないため、特に悔いと悔いとに身もそぞろとなる(中原中也「雪の宵」)。

 

こういった場合の対処は本当はとても簡単だ。

絵を描く時の適切なプロセスは、モチーフそのものが最初から最後まで示している。テクニックはないよりあった方がいいが、上手く描けないのは単純に無知から来る問題であることが多いように思う。

 

例に挙げたりんごで言えば、モチーフとして私の目の前に現れたりんごについてもっと知る必要がある。

 

りんごは最初から赤いわけではない。当たり前のことだが、目の前の画面の中で格闘している時は不思議と、そういう簡単なことを忘れてしまう。

 

りんごは最初は果実ですらない。花だ。私たちが花として認識している部分と茎の間、と言った方が正確かもしれない。

花びらが散った後、実となる部分は基本的に緑色で、栽培されているものはそこから日光から遮られた状態に置かれたりもするので、薄い黄緑色のような色になる。

 

その後日光を受けることによって赤く色づいていくのだが、黄緑色から赤色になるまでに、黄色、薄いオレンジ色、オレンジ色と赤の間、赤、……大まかにはそういったプロセスを踏んで、私たちがよく知っている「りんご」の色になっていく。

 

りんごが目の前に現れるまでの実際のプロセスをなぞって描くと、りんごの色が現れる。当たり前と言えば当たり前だが、自分の頭の中に閉じこもってしまうとわからなくなる。

 

自然物の多くは純粋な色ではない。全く同じりんごももちろん存在しないので、それぞれのりんごの色と向き合わなければ、嘘っぽい絵になる。

 

モチーフが変わっても、基本的な軸は同じだと思う。モチーフをじろじろ見ていると、どうやって描けばいいのかをモチーフそのものが示していることに気付く。基本的にはその通りに描いている。

 

それに気付くまでも個人的には長かったが、そこから自分の意図をどう混ぜ込むというところがようやくスタートなのかなと思う。モチーフを見ることができるようになるのは、建造物を建てたい土地をようやく更地にできたようなものと感じている。



人間の肌もりんごと同じで、その人がどんな時間を過ごしてきたのかを知ろうとしなければ、その人を描くということはなかなか難しいように思う。

 

それなしでも人間だなあというものを描くことはできると思うが、それは記号としての人間を描いているだけになってしまう。
もちろん、記号を描くことが必要な場合もあるし、記号の表現を探求する描き手もいる。私はそういった人々を尊敬しているが、少なくとも私はそこには至っていない。

 

何かを知る時、生身で向き合うことも重要なことだと思うのだが、描くことを介して向き合う、少し離れたり斜めから見たりしながらモチーフと向き合う、というプロセスを踏むことで、もっと知ることができるものがある気がする。

 

絵を描くことは、自分が知らないことに気付くプロセスでもあり、知っているような気がしているものを舐めるように見て、初めて知ることができるようなものもあると感じている。

 

描く時には、生身で見つめるよりも熱心に見つめなければならないし、生身で触るよりももっと繊細に触らなければならない。だから私は描くことを通して、私には知らないことがたくさんあると気付くことができる。

 

知らないし知りようもないことを、それを了解した上で知ろうとする、分け入っていくことを続けて行くことが私には必要だと思う。

 

私の愛する画家の一人である竹内栖鳳は「動物を描かせればその臭いまで描く」と評された。確かに匂い立つような何かがある。

栖鳳が師事した幸野楳嶺は多くの近代日本画の大家を送り出し、写生を重視していたと言う。

 

ただ見るだけではなく、舐めるように見る、表層に現れているものの向こう側にある何かを見ようとすることで、モチーフとなる何かや誰かの心から立ち上がる臭いや温度を描けるようになるのかもしれないと思う。

 

 

スケッチ(めちゃくちゃ途中)

本文で大口を叩いてるのに全然描けてないのダサいよ〜