痛みのまま生きる
人、犬、物、なんでもいいが、愛するなにかを失った後の人生は、絶え間なく土砂降る痛みや悲しみに打たれ続けることしかできない時もあるし、永久(とわ)に傷ついた身体を抱えて生きることだと思う。
そういう時の心の反応は人それぞれだろうが、私の場合は、もう何も見たくない、聞きたくない、感じたくないと思って目を閉じて耳を塞いで心を閉じる。
自分の瞼の裏だけを見る、自分の心臓や呼吸の音だけを聞く、それらのことを感じる心さえも閉ざして揺るぎなく真っ暗な気持ちになる。もう二度と自分には光を見て生きることができないと感じる時もある。しかし私の全てが終わったわけではなく、私の手元にはいろいろなものがあって、人生は続く。
アンビバレントな状況の中にあって、私の心や精神は混迷を極める。
人間の目はずっと同じものを見続けていると、そこに順応する。明るさへの順応を明順応、暗さへの順応を暗順応、と呼び分けることもあるが、人間の目は周囲の環境に順応して、どれくらい光を見るかということを調整している。
人間だけでなく、目という機構を持つ四肢動物の多くにはその機能があるのではないかと思う。
暗がりから動かずにいると、暗がりに慣れた目は塗りつぶされた景色にさえ光が見えるようになる。
暗い場所に留まり続けることによって、初めはくろぐろ見えていたものの中にも明暗を見るようになった経験のある人もいるだろうと思う。
視覚は人間の感覚機能の中でもかなり不正確なものだと聞く。
それを処理する脳も嘘つきで、入力された情報に不十分であったり欠けたりしている部分があると、過去の経験などから勝手に補完してしまう。今まで見たことがあるものを見ようとする機能があるからだ。
脳という臓器自体、入力に合わせて自らの形を変化させていくという性質を持っている。
私たちの脳や、その中の心というシステムは、それ単体では働くことができない。周囲の環境や、自身の身体の性質に合わせて、自らを変えていく。
過去は永遠に私たちの心へと影響を与え続けるから、堆積した記憶や経験によって現在の見え方が変わり続けている。
人間の脳は嘘つきだ。感覚でさえ絶対的な基準はない。人間の目の優れた機能は、コントラストを捉える相対的感覚なのではないかと思う。
人間は見ようとするものしか見ることができない。私に痛みを感じさせ続けているのは私自身だ。
私は私自身の内部の暗がりだけを見続ける。私の脳とか心は暗がりに順応し、目を凝らさなければ見えない明暗さえも見えるようになる。
私はいつも光を見たがっている。
私は痛みを感じ続け、喪失は強かに私の背骨を打ち砕かんと降り注ぎ続ける。もうすでに終わったはずの喪失が終わらない嵐のように感じられるのは、私自身がそう感じたがっているからだ。
私自身の取り戻したいと望む気持ち、もう二度と会えない誰かに会いたいという気持ち、それらの気持ちが、私の肉体に痛みを降らせ続けていると感じた時、喪失は転回する。
悲しみ続ける、痛みを感じ続けることは、永遠に失われてしまった何かや誰かを感じるための唯一の方法のように思う。
痛みを自らに課す行為を悼むと呼ぶのではないかと思うことがある。
私は私自身に痛むことを課す。去っていく誰かや何かを最後まで見送るのは、別れの瞬間を少しでも延長したいからだと思っている。
私が喪失の痛みを感じ続けるのは、喪失した誰かや何かからあまりにも多くのものを贈られ、私はそれを受け取り続けていて、そのことをどうしても忘れたくないと強く欲望しているからなのだろう。
失ってからようやく信じられるようになることがある。特に、人や動物などの生き物だと、その相手の心や気持ちを勝手に補完することは罪悪のように思えるし、私の持ち物ではないものにまで手を出すべきではないという気持ちもある。
しかしそれが喪失された後は、彼らの現実の存在は消え、残るのは私の記憶や思いだけだ。思い出すたびに、私の脳が作り変え続ける記憶や感情は、少しずつ事実とは異なった形になっていく。
虚構を作り出すという機能が私たちの心にはある。
私は失ってから初めて、自分が愛されていたと思うことができるようになる。人、犬、ものごと、何であっても同じことだ。
何を愛として捉えるかは人それぞれであって、私が愛と感じるものが誰かにとっては愛ではないことも多くあると思う。
しかし私の心は私のためだけに使われる。
失われてしまった重要すぎる何かを思い出す時、私はどうしてもそれらに会いたいと強く願っているのだと思う。
一説によると、弔うという言葉の語源は、訪 らう、という言葉であったという。
訪ねる、というそのままの意味の他にも、探し求めるという意味もある言葉だ。
私たちは失くしたものを訪ねたいと願う。願うから探し求めてさまよう。現実(と私たちが捉えている)世界で失ったとしても、自分の脳、心、記憶や感情の中でだけは失いたくないから、悲しみに暮れ、痛みを感じ続けるのかもしれないと私は考えている。
私に強く訪ねたいと思わせるのは、失われた誰かや何かが私に与え続けていた感覚のその全てなのだと思う。私の願いを作っているのは私と、今はもう失われた愛する何かの両方だ。
そういう風に思った時、私は私自身の心、精神、肉体や実行の全てに、愛する何かが宿っていると思うようになる。私は愛する何かと出会い直したかのように感じる。
出会い直すことは失い直すことを意味する。私は何度も出会い続け、失い続ける。
私の喪失は私が死ぬまで終わることがない。
私は、私自身、他者、世界の全ての中に、失ってしまった愛する何かを感じる。私は何度でも喪失の痛みを思い出す。私が愛する何かを感じることを望んでいるからだ。
失われてからの人生にあってさえ、愛する存在はいつも、私に光を見ようとさせるのだと思う。