不在を描く

 

 

先日、諏訪敦「眼窩裏の火事」という展覧会を見に行った。

 

私はスーパーリアリズムと呼ばれるものも含め、写実絵画が好きだ。諏訪敦のことももちろん知っていたが、実物と直接対峙して見たのはこれが初だった。

 

今回の特別展は三章によって構成されていて、人物、静物、再び人物、という流れで見ることになる。画面上の構成、テーマなどに違いはあるが、そのほとんどが写実描写を特徴とした油彩画だ。

 

静物画には動く生き物が一切存在しない。植物が描かれることもあるが、画面の中の世界はどこか静止している。空気に舞っている埃まで、その一瞬を捉えた姿で描き出されそうだ。

画面の大きさも小品と呼ばれる程度のサイズで、描かれているモチーフも細々とした物をほんの数点、第一章と第三章の大きな画面の作品たちと比べるとミニマルな作品群だった。

 

私の中で印象に残っている作品がある。

 

おそらく台所の流し台のあたりに、木製のまな板が置かれている。分厚い。ところどころ水分の染みた跡、経年や日光によるものか、褪色したようなグレイッシュなトーンで描かれている。端のあたりは木目に沿ってひび割れている。包丁の跡だろう、細かい傷が幾重にも重なる。そしてその上には豆腐が包丁が入れられないまま載っていて、ほんの少しの形の崩れは見られるが、木綿らしきそのテクスチャーは形を保っている。まな板と豆腐だけの絵だ。

 

日本の写実絵画の最前線を行く画家の一人であるから、もちろんその描写の精確さは極まっている。

 

画面の中にはいくつかの直線が含まれているが、それらが平行にいくつも並ぶとか、全く直角にぶつかり合っている、というような、特別な意図がないのであれば行うべきではないとされる組み方は避けられている。

豆腐の角がほんの少しまな板からはみ出している。そのわずかなズレも、考え抜かれた上で行われていることがわかる。画面上の重心をフラットにしながら、画面の隅々まで視線が行き渡るような、繊細なバランス感覚で巧妙に構成されている。

 

非常に小さな画面で、明確なモチーフはたった二つの直方体、全体としても似通った色しかない。言ってみればそれだけの絵を、こんなにも丁寧に、繊細に描写する執念は、ほとんど異常なまでの域に達している。

 

この画面に現れる、今目の前にある実体を持ったモチーフへの果てない探究心は、一体何を探し求めているのだろうと思う。




「眼窩裏の火事」とは、閃輝暗点の症状のことを指しているという。絵を描く際に目を酷使することによって、筋肉の緊張から血流の異常が発生し、症状が現れるそうだ。

 

そこに何があるのかは目に見えていることが全てだ。なのに、こんなにも目を凝らし続ける理由、描き続ける理由は何なのか。

描くことでしかそこに何かを見出すことはできない。



写実絵画の中でも、スーパーリアリズムと呼ばれるような作品が描かれる時には特に、そこに嘘の入り込む余地などないかのように見える。

しかし実際には、全ての絵画と同じように、どれだけモチーフを熱心に見つめ、丹念に描写しても、それが事実とイコールで結ばれることはあり得ない。

 

絵を描くということは、そこに見えるもの/見えないものの、何を描く/描かないのか、どんな風に描く/描かないのか、というような無数の取捨選択の絶え間ない連続だ。

 

事実はただ事実であるというだけで、事実としての価値がある。

しかし人間が事実をそのまま捉えることは困難だ。その代わり、虚構を作り上げるという機能が備わっている。そして、虚構には必ず理由が必要だ。

 

作品世界の中に、理由のないものがあってはならない。

 

写実絵画は、事実をただ事実として描く行為ではないように思う。しかし明らかな虚構を作り出している場合、それは写実ではない。

事実を観察し、事実に基づいた上で、事実とイコールではない、本当の本当を描き出すという営みとして、私は受け止めている。




先述の豆腐とまな板の絵のタイトルは「不在」だった。私は展覧会で見た絵のほとんど全て、不在の感覚を持っていると思った。

 

傷つき色褪せたまな板、ざらついたテクスチャーの木綿豆腐。そこにある生活の気配は、傷つき、色褪せ、ざらついた、年を重ねた誰かの存在を示しているようにも思える。

そこには人の気配がない。そこにあるはずのものがない時にむしろ、その存在を強く想起する。

不在は存在のあり方の一つだ。




三章に分かれた今回の展示では、それぞれに章題が提示されていた。

第三章「わたしたちはふたたびであう」は、一人の画家の中に蓄積され続ける生活、人生が、絵を描くという行為に与えた意味を端的に表したタイトルだと思った。

 

私にとって絵画は窓、扉だ。

 

絵の中に描かれているモチーフの多くは、鑑賞者が絵画を見る時にはその場に存在しない。私たちが作品と対峙する時、そこに現れているものが虚偽なのかあるいは事実なのか、ということは知りようがない。

作家の思いであるとか、生活、人生、歴史、そういったものもわからないことがほとんどだ。

 

だから鑑賞者は、自分自身の歴史、人生、生活、思いだけを道標とする外ない。

 

鑑賞者は自分が何者であるかを規定されない。だから私たちは、他者の記憶や心を覗いているような、自分自身の記憶や心を覗いているような、そのどちらでもあるような、あるいはどちらでもないような気持ちになることができる。

私たちは見られている人になり、見ている人になり、生まれたばかりの人、これから死にゆく人になる。人だけではない。動物にも植物にもなり、水になり、塵になり、雲、海、山になる。影になり、光になる。

その全てであることもできるし、その全てでなくなることもできる。

 

絵画という窓枠を通してだけ出会うことのできる何か、誰かを見る。それは絵画の中ではなく、鑑賞者自身の持つ記憶、思い、から醸造された感覚だ。

 

絵画を見る時、作品世界における鑑賞者の立場は、客観以外にあり得ない。にもかかわらず、鑑賞者は自分の中のあらゆる記憶、思い、願いを、絵画の中に見出すことがある。

 

絵画という形式そのものが、扉としての働きを持っている。それは現実世界にいる時には決して開かれることのない扉だ。



絵画が見せるのは、画面の中の世界ではなく、外の世界である。

 

画面の中にあるのは豆腐とまな板だけだったとしても、鑑賞者として私が見ているのは画面の外の世界、そこにいたはずだった誰かのことだ。そしてその誰かは描かれていないから、私は自分自身の人生、私自身の人生にいるはずだった誰か、あるはずだった何かを見る。自分自身の記憶や思いや願いを見る。

 

絵を描く時、絵を見る時、私たちはもう二度と会わないはずだった誰か、何かをわずかに訪ねる。

 

絵画の中の風景を美しく描くということは、鑑賞者の心に触れる作家の義務かもしれないと思う時がある。

 

その人にとって重要な記憶や思いがいつも美しい訳ではない。言葉によって語られることに耐えられないこともある。

絵画が傷や痛みを癒すことはないだろう。誰かの墓を暴くような、暴力的な作品として働くこともある。閉じておきたい扉は誰の心にもあるものだ。

 

私は、その人が自ら踏み入れることを選べる唯一の扉が絵画だとさえ思っている。

 

重要な体験や思いは、何か一つの言葉、音、色では表現できないものだと思う。大切すぎるものが語られることは少ない。

 

好奇心や恐れがせめぎ合い、戸惑いながら、それでも受け止めるための腕を広げたいと思えるような作品は、事実にも虚構にも、それがそうでなければならないだけの理由が存在している。

作品というものに描かれた事実や虚構には、事実としての価値、虚構としての価値がなくなる。そこには描き手にとって本当に必要なことだけしかない。それが全てだと思う。

 

広げた腕の中に作品が飛び込むことはない。作品は窓の向こうから差し込んでくる光であって、鑑賞者が自らの腕の中に何かを見つけたとすれば、それはずっと鑑賞者の中にあったものなはずだと思う。

 

永久に癒えない傷や痛み、何かしらその人の心の中にある何か大切なものに光を当てる時、その人が見ようとすることができるものがそこにあって欲しいと思う。

 

雑テントウ 春も近いですね