愛されないのは難しい

人間が誰かや何かと関係する時に、愛されることを回避することはとても難しい。

 

愛を全肯定とか完全無欠な抱擁とか揺るぎのない許しと捉えたとしたら、また違う感覚だと思うし、違う表現をしなければならないと思う。思うが、何かを知るたびに、愛とは私が知覚するものだけではないと知るばかりだし、私がまだ知らない愛が世の中にはたくさんあるのだろう。

 

コンビニでパンを買うとかジュースを買うとかそれだけで、それを作ったり考えたり届けたりしている人の広く愛を受け取っているなということをよく思う。

 

別にその人たちは、私の目を見て愛していると情熱的に言う訳ではない。

自分がお金を稼いだり、自分自身(や身近な人たち)の生活を守るために仕事をしている人が大半だろうと思うし、強く「愛されている!」と思う訳でもない。

 

でもなにかを作ってその上売る時、それを受け取ったりお金を払ったりする人のことを一切考えない、ということはなかなか難しい。

もちろんそれも仕事としての話であり、私という個人(現実存在としての個人)を想定して作られた商品はこの世には存在しない、と言っても差し支えない。

 

ただ、何かを作って世の中に送り出す時に、これを受け取ってくれる人がいるといいなーと、ぼんやりとしてでも願い、祈り、を抱く人は少なくないと思っていて、それは愛ではない、とは私は言えないなと思う。

 

それは結構途方もなくない? と思う人もいそうな考えではあるが、もっと身近な例で考えると、昔友達だった人や、今友達である人たちは、例えば1年に一回とか、5年、10年、20年……に一回とかかもしれないが、私のことを思い出してくれる時があると思う。

今ここにいない人を思うということについての話を(たいてい物語の中で)耳にする、あるいは目にする時に、私はそれを愛だと感じる。

 

多分私は目に見えないものや耳に聞こえないもの、触れないもの、言葉にされないものを、より強く真実だと感じるのだと思う。

目の前で何がなされているかということが、もちろん、私にとって全てである。

しかし、だから、私に見えるものが私にとって全てであるように、誰かにとってその人に見えるものが全てであり、また別の誰かにとってもその人に見えるものが全てであるはずだ。と、そう考えると、私の知らない、全て、が多分あるのだろうとも思う。

 

知りようのないことは世の中にたくさんある。

私は、自分は何も知らないなといつも思う。

 

そういう意味では、知り得ないことを知ろうとし続けることを、私は愛と感じるのかもしれない。

知り得ないことを知ろうとする、ということを続けるには、知らないことがあるという恐怖や、知りたいというおぞましいまでの欲望そのもの、変えようのないことへの絶望、カミュの言うところのシーシュポス、太宰の言うところのらっきょうを芯まで剥く猿、……のような絶望、を自らの内で受け入れなければならず、また継続しなければならない。

 

そのことがどれほど苦しいかということは、もちろんわからない訳ではない。

 

私は多くの人から愛されている、と本当に思っている。

何もかもを捧げられることや、心や肉体が近いことや、明確な言葉に表現されることだけが愛ではないだろうし、時折思い出してくれる人がいるかもしれないなー、と考える時に、私は自分が愛されていることをもっと自覚しなければならない、と思う。

 

愛されているということ自体が、私にとっては多分少し悲しい。私が関わった誰もが私を愛してくれていたとしても、私にはそれは必要ないし、それで救われるものはなにもない、と思う。そのことを申し訳ないなと思う時もあるが、私は本当にすぐいろいろなことを忘れてしまうので、時折思ってもすぐに忘れる。

忘れていても多くのことは人間の心(脳)に蓄積され続けるのだろう。だから私は安心していろいろなことを忘れることができるのかもしれない。

 

好むと好まざるとにかかわらず、生きていると愛されざるを得ない。

私は誰かと会ったり、何かを見つけたりする度に、どんどん愛されることを回避することができなくなっていくなーと思う。




自画像・河川敷にて(Andrew Wyeth「Winter 1946」のオマージュのつもり)