犬への扉1 宇多田ヒカル「Simple And Clean」

 

犬が亡くなってから3年が経った。

 

正確には3年と8ヶ月が経とうとしている。

 

犬は、2006年10月10日生まれのウェルシュ・コーギー・ペンブロークだ。子犬の頃に、ペットショップから私の家に来た。犬にはその時私が付けた「クリ」と言う名前がある。

 

犬は13歳のときに亡くなったが、前日まで超元気だった。なので、突然駆け足で死んだ時は驚きが勝っていたように思う。

 

子犬の時から乱暴者だったが、死ぬまで暴れん坊将軍の犬生を貫いた。弾丸のように走り回り、幼い家族や知らない人に触られた時にイヤな部位(脇の下など)を触られるとノーモーションで噛み付くほどだったが、ドッグランで他の犬に追いかけ回されると、飼い主の足の間に挟まって震えている臆病な犬だった。多分、とても怖がりなので、怖いと感じると噛みついて、自分を守っていたのだろうと思う。

 

私は犬のいない世界で生きることが今でも怖いと感じる。

 

音楽や文学や映画や美術は私にとって、犬のところへ繋がった扉を開くための鍵であり、私がこの3年間生きてくることができたのは、犬と、音楽や文学や映画や美術のおかげだと思う。

生身の人間の言葉や行動に、本当のこと(と私が呼んでいるもの)はなにもなかった。私が見出せないだけかもしれない。どちらにしても、だから私の人生には犬と音楽や文学や映画や美術が必要だった。

 

今日は私を生き延びさせてくれたもの、その中でも、犬への扉(ハヤカワSF文庫のタイトル?)を開いてくれた音楽に絞って書いていこうと思う。

 

一度に全ての曲について書くのは大変だったので、どれくらいの時間がかかるかはわからないが、一曲ずつ取り上げていくことにする。



* 歌詞を引用する部分がありますが、英語の歌詞の翻訳は、私が個人的に行ったものであり、誤訳を含んでいると思います。

* いくつかの曲については、アーティスト本人による日本語訳があります。気になったものがあれば、ぜひ調べてみてください。

* 取り上げる予定の曲は全て、Apple Musicで作っているプレイリストで聞くことができます。

 

 music.apple.com

 




1.宇多田ヒカル - Simple And Clean

 

 

犬が亡くなる日の朝、動物病院に行く車の中でこの曲を聞いていた。

 

その日は私が当時通っていた予備校の中期授業の最後の日で、高校卒業程度認定試験(いわゆる高認、旧大検)の合格通知が届いた日でもあった。私は予備校に行ってしまって、夕方早めに帰ろうとした時にはいつも使う電車が事故で運転を見合わせており、普段は乗らないバスに乗って帰った。

 

バス停には普段ならあり得ないような行列ができていて、私は自分が乗るべきではないバスに乗り込んでしまったことに気付けなかった。

私が、真っ暗な、知らないバス停で降りる時、バスの運転手は「ずいぶん遠くまで来ちゃいましたね」と言った。



この曲は日本語詞の「光」と英語詞の「Simple And Clean」があり、いくつか異なる部分がある。

私は英語に詳しくないため(まともに授業を受けたこともほとんどないので、中一レベルで止まっているはずだ)、歌詞に関しては意味の取り違えなども含みつつ、自分にとっての意味という部分に焦点を当てていく。

 

大きく違いを感じるのは、サビにあたる部分であり歌い出しであるこの部分、ボーカルのメロディだと思う。

 

When you walk away

You don't hear me say

"Please, oh baby, don't go"

Simple and clean is

The way that you're making me feel tonight

It's hard to let it go

 

あなたが歩き去ってしまう時

あなたは私の言葉を聞かない

「お願い、行かないで」

シンプルアンドクリーン

そうやってあなたは、私に今夜を感じさせてくれる

難しいよ ただ、あるがままにするのは

 

 

もともとこの曲が好きだったが、大切な曲になった。

 

この曲だけでなく、犬がいなくなってから、私はいろいろな曲を大切な曲と思うようになった。犬を思い出すし、音楽それ自身の中にある痛みや悲しみに触れさせてくれるようにも思う。

 

痛みや悲しみを生身の人間が語っているのを聞いても、こういったことは起こらなかったと思う。

音楽、あるいは文学、映画、美術、という形で出力されることで、それは私に、より真実を感じさせてくれる。

 

Whatever lies beyond this morning

Is a little later on

Regardless of warnings

The future doesn't scare me at all

Nothing's like before

 

この朝を超えた先にあるものが何であろうと

もう少しだけ先のことだよ

警告は関係ない

未来に恐れるものは何もない

変わらないことは何もない

 

 

宇多田ヒカルの歌う希望は真っ白な希望、揺るぎのない希望ではなく、揺らぎのある現象だと思う。

光は、一般に白色光のことを言うことが多いかもしれないが、白色光には全ての光のスペクトルがほぼ均等に含まれている。

 

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」という映画に「太陽が爆発しても、僕らは8分間、何も知らない」というセリフがある。

太陽から地球までの距離は約1億4960万キロメートルあり、その距離を光は8分19秒かけて到達する。

「Simple And Clean」は、私の中にある現実まで、犬の死という事実が辿り着くまでの8分間を象徴する曲のように感じられる時がある。

 

光がたとえ真っ白に見えても、あらゆるスペクトルがあり、陰影がある。

真っ白な光とか、真っ暗な闇に見えていても、そこに目を凝らし続けていると、真っ白、あるいは真っ暗ではないことがわかってくる。明るい場所にもあらゆる段階の影があり、暗闇にもあらゆる段階の光がある。

 

私が宇多田ヒカルの書く歌詞について好きな部分は、世界や自分の脳は嘘をついている、という認識が基底にあると感じられるところだと思う。

私たちの脳は、真実を深い海溝の底へ沈めて隠してしまう。真実を知った時に、私たちの心が耐えきれない時があると知っているからだ。私たちは自分の心を守るために、自らに向かって嘘をつく。

 

世界や自分の中にある、事実であるかのように見えるものごとの奥に潜り、嘘をかき分けていった先に、真実を見つけられることもある。嘘は私たちの心のシステムであり、真実の在り方のうちのひとつだと思っている。私たちの脳という立体の、ある一面であって、それが全てではないし、全てと言われるものの一部である。

 

私たちは時々、強すぎる光から目を逸らしたいと思う。

私たちは自分自身から逃れることはできない。明けないかのように感じる夜は必ず終わる。朝を望んでも望まなくても光はここまで届いてしまい、逃れられない。(「遅かれ早かれ光は届くぜ」と、宇多田ヒカルは「BLUE」という曲で歌っている)

 

これまでと同じものはなにもない。それは揺るぎのない恐怖かもしれないが、嘘と一緒に真実があるように、恐怖と一緒に喜びがあり、絶望と一緒に希望がある。

 

相反する複数のものが同時にあることを認めるのは、とても難しい。しかし、これは事実であり、希望を無視したまっくらな絶望も、絶望を無視した真っ白な希望も本当はありえない。

 

何かを本当に望んだり、本当に獲得すると言うことは、それを本当に失うことと全く同じ意味だ。何かが私の手の中にほんのひとときの間留まって、そして去る。

 

光から目を逸らさないでいたいと思う。