尻尾付きコーギーを見た
飼い主と散歩する尻尾付きコーギーを見た。
コーギーは立ち止まって私を見て犬の笑顔の表情(笑顔を浮かべていると思わず感じてしまう、犬のよくある表情がある)をして尻尾を振っていた。私は最近空ばかり見ていて、今日は木星が見えるとしか考えていなかったので、不意打ちでたくさんのことを思い出してしくしく泣きながら帰った。12月は犬が死んだ時期だからかもしれなかった。
しくしくという言葉はしきりにしきりに、というような意味らしい。
私がそれを知ったのは、万葉集にある「奥山のしきみが花の名のごとやしくしく君に恋ひわたりなむ」という和歌の解説を調べた時だった。
奥山のシキミの花の名前のように、しきりにしきりに、あなたを思い続けるでしょう、というような歌。
神道の儀式ではサカキが使われるが、仏教の儀式ではシキミが使われるという。昔はごちゃ混ぜだったのではという話もある。
今はシキミといえば仏花であり、宗派などによっても違うのかもしれないが、故人のために一輪だけ供える植物にもよく使われるというようなことを聞いた。
由来は書籍などによってもいまいち定まらないような感じもあるが、シキミが強い香りを持つこと、また、根から花や実に至るまでの全体に強い毒性を持つことが関係しているのではないか、というような記述がネット上での解説などでは共通しているらしかった。
毒を持つ植物、強い香りを持つ植物のように、あなたを思い続けるだろう、というのはちょっと怖い感じもあるけど、「奥山の」というフレーズがあるのとないのとでは、その部分の印象が全く変わってくると思う。
奥山のしきみは、毒も香りも誰かのところまで届かせるのは難しいだろうと思う。でも、誰にも知られなくても、しきみはしきみである。
誰にも知られなくてもしきみはしきみとして花を咲かせる、その名のように、誰にも知られなくても私はあなたを、しきりに、しきりに思い続けるだろう、というニュアンスがより近いのかなと思う。奥山のしきみを思うという歌の設定自体が、今ここにいないあなたを思うという所に繋がってくるのも、構造として見事だ。
今ここにいないあなたを思う、というのは確かに仏教的な考え方なのだろうかとも思ったりするけど、それはわからない。
今ここにいない犬を思ってしくしく泣くときは正直そのほかのことを考える隙間がないけど、時々この歌を思い出す。
犬が死んで3年経つけど私はまだ花や水たまりや星ばかり見てしまう。飼い主と散歩中の犬とすれ違う時には、あまり振り返らない。
花や水たまりや星を見る時も充分つらく、飼い主と散歩する犬を振り返って見た時に、もう二度と歩けなくなるような気もするし、そうでないような気もする。でもどちらであったとしても、多分充分つらいのだろうと思っている。
- 弾丸の如く走るコーギー
2022/12/26